外林秀人/Sotobayashi Hideto/講演会「ヒロシマ・ナガサキへの追悼」・感想文集
 <外林秀人−ベルリン通信より>


ダーレム から ヒロシマ へ―そして世界 へ!

“核兵器がもたらしたもの”・・・その真実と被爆体験をドイツを中心に、学生達に語り続ける科学者と、
その生の声に触れた多くの若人達の感想文・往復書簡・Q&A
―そこから見えてくるものは―

講演会・感想文集

注)ダーレム/Dahlemはベルリンの西南に位置する地区であ る。1910年のベルリン大学100年祭にあたり、カイザー・ウイヘルム協会が誕生し、1911年、協会の第一号の化学研究所が、第二号の物理化学・電気化学研究所(現在フリツ・ハーバー 研究所)が開所した。その後、この辺りに専門の違ったいろい ろの分野のカイザー・ウイヘルム研究所が次々に生まれた。
その学際的雰囲気は、素晴らしい研究成果の誕生に多大の貢献をし、ドイツのオックスフォードとよばれるようになった。カイザー・ウイヘルム化学研究所で、1938年 に”核分裂”が発見され、原子核エネルギーが、人間の手に渡った。 (外林)

自らの被爆体験を通して核兵器の実相を繰返し語り続ける外林氏(左)と熱心に聞き入る生徒たち(右)

私は永年ダレムで生活し、その学術的風土を堪能し、それについて書いてみたい希望があった。199586日広島原爆投下50周年にアウアより本を頂き、ダレムの風土が良く記載されており、核分裂発見、原爆にも関連しており、翻訳を意図した。

興味の主体は風土であった。被爆者の一般的性格として、“見ない、触らない、喋らない”で永年過して来たが、外山さんの要望で自身の被爆体験を“キノコ雲の下で”の題で書き入れた。その本は2003年“ドイツの原子力物語”として総合工学出版会から出版された。

更に愛知万国博覧会があった2005年には、その本で外山さんが描いた挿絵を中心に名古屋大学博物館第6回企画展として「核分裂絵巻展」が開催された。それは広島へ原爆投下から60年後の86日から始まり、その最終日の107日に名古屋大学博物館公開講演会で、私は 広島での原爆体験と題して、永年の沈黙を破って話をした。

それからドイツに戻り、2007111日にベルリンの日独センターで被爆体験の証言をした。“広島と長崎への追悼という題で、ドイツでは初めてのことであった。これを地元の新聞が取り上げてくれて、次の証言につながった。それ以降これまでにドイツだけでなく、オランダ、スイスなど、証言を行った回数は40回以上に及ぶ。いろいろと励ましの言葉をいただいているが、2009624日にリップシュタトの中学校で講演したしたとき、生徒からの感想文をまとめて送っていただいた。その時、私はこれらの文を日本の人々に紹介することを約束した。また、200891日にオスナブルグのプロテスタント社会教育専門学校で講演したときにも、同様に後から学生達の感想文がまとめて届けられた。以下に、その学校からの連絡文と、届けられた生徒達の感想文を翻訳して掲載する。

外林 秀人

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リップシュタトより

【連絡文
リップシュタトより / 2009年8月18日

親愛なる外林先生

夏休みの前に先生の講演を聴くことが出来ました。リップシュタトのブロテスタント系ギムナジウム*)の学生達の感想文をここに送ります。

講演後の話し合いで、数人の学生から貴方に感想 や感動を文章で伝えたいという希望がだされました。先生もよくお分かりのように、多くの学生達は彼等が強く感じたことを、言葉でうまくその場で表現するのは難しいことです。それで文章にしておけば心残りがないということになりました。有難いことにウヴェフロリッヒさんが、この手紙の束を貴方に渡す役目を引き受けてくれました。先生には今後とも、できるだけ多くの若者達に今回の講演のような明解で素直に感銘を与えるお話が出来る体力とエネルギを持続されるよう祈念いたします。

最後にもう一度、先生の講演に感謝申し上げます。将来とも心を開いた、関心を持った聴衆との話し合いの機会が多くありますように心より祈っています。

サビネ・シュレンヴォイグト

*)ギムナジウム:ドイツの大学進学課程の中等学校

ベルリンより/ 2010年2月7日

親愛なるサビネシュレンヴォイグト様

201023日に、ポツダムでウヴェフロリッヒさんとお会いして貴方の学校の学生達の感想文の束を受け取りました。手紙の束が、リップシュタトから私まで、異常に永い時間を必要でしたが、この責任は私にあり、10、11月と2ヶ月以上広島に行き、ベルリンに居ませんでした。
有り難うございました。学生達が、講演を良く理解してくれたからで、とても喜んでいます。将来、これらの感想文を翻訳し、若者達の反応として、日本の人々に紹介したく思っています。皆さん、学生さんによろしくお伝え下さい。

外 林 秀 人

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感想文

親愛なる外林教授 

私は、リプシュタトのプロスタント系ギムナジュムで先生の原爆体験談を聞いた女子学生です。それは2009624日でした。もし先生の名前を間違えて書いていたらお許し下さい。先生の話に、私はじっくりと考えされました。先生が体験し、耐え抜けなくてはならなかった事は、ひどいことです。先生の話の内容は、全く恐るべきものとして傾聴しますが、私にはそれが現実にあった事とは想像ができません。

先生の体験を語ることは、勇気のいる、強い意志が必要でしょう。私は、先生の体験を聞き、熟考出来たことを感謝します。

心理的、医学的の傷にも拘らず、教授の資格、博士の資格を取ったことは注目に値します。ドイツ語を上手に話すことは、非常に良い事です。先生が今までにやり遂げ、今も元気に活躍していることに尊敬します!最後に、この世界が先生に幸福でありますように

先生にすこし質問があります。先生の話した体験と共に、どのようにして生きていけるのか 日常の生活は ? 私のメル住所を書いておきます。返事が頂ければ嬉しいです。

アユム・チャン  Ayumu chan

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親愛なる外林教授 様

昨日の先生の講演はとても興味あり、感動しました。先生が体験者として、当時のことを話し、我々にも、分ち合うようにしたのは非常によいことだと思いました。この報告なしには、当時原爆投下がいかに恐るべきか、残虐なものだか想像出来なかったでしょう。

私は先生が、我々学生達に講演したのは、大切なことと思います。それぞれの人が、当時いかに残虐なことが起きたか、そして若しそのようなことが再び起きれば、残虐で恐るべきことになることに気づいたことは非常に大切なことです。私は、各自がこの出来事を真剣に取り組み、各自が,このことを悲しむことを希望します。

このテマに私は真剣に取り組みました。人間は原子爆弾を使用するような残虐なのでしょうか。考えられないことです。私は将来も世界平和が続くよう希望します。私はこのために、先生が個人的に真心こめて従事されたら、素晴らしいことだと思います。そうすることで、更に多くの学生達にこの難しいテマを感情的に理解させることになるでしょう。

この大切な、やりがいのある使命を遂行する力を先生に与えられますように!

ヴィブケ Wibke

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親愛なる外林教授

2009624日に、 リップシュタトのプロテスタント系ギムナジュムの講堂で、広島原爆投下の、先生の体験談を聞きました。私は9a.**)学級の学生で、マ ・ホルストマンと申します。

624日の第3と4時間は、我々9a学級の学生は、広島と長崎への原爆投下の 核戦争防止国際医師会議(IPPNW の展示を参観しました。それに引き続き2時間、先生の講演を拝聴しました。

194586日の体験を、非常に冷静、客観的に話され、私は感動しました。先生に取り全ては過去のことですが、しかし、そのことをあまり知らない人に取っては、すべて非常に恐るべき,想像に絶することです。何故、人間は、そのように危険な爆弾を、罪の無い人間に、投下し、それで対象物を何千年も汚染するのでしょうか

先生は我々学生達に、原爆投下、爆発の時、ギラギラする閃光を見たと言われました。展示展では,それ以外に、想像以上の熱線が放出され、油性状の黒い雨が降ったと展示されていました。先生はこれらのことも体験されましたか?

何人かの人間は、この熱線を数秒間浴びて、蒸発したのでしょう。先生が示された写真の一つがハッキリと示していますが、人間のが映されていました。この事実は、私に恐るべきことです。人間が秒の時間で、蒸発されるでしょうか?

先生の講演を感謝します。先生の体験を、出来るだけ多くの人々に話してください。 それにより、このようなことが二度と起こらないよう希望します。先生の講演により、私は熟考するようなり、原子爆弾は人間の作りだした最悪のものだと、ハッキリ確信を持つようになりました。

貴方の将来に幸福がありますように。

マラ ・ホストマン

**) 9学級:日本の中学3年生

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親愛なる外林教授

2009624日、 私(ヤニネ ・シュツエ ・ワトロプ)は、194586日に広島での出来事についての先生の講演会に参加しました。この会はリップスタトのプロテスタント系ギムナジュムで開催され、私は 9学級の学生です。

私は、広島、長崎の出来事について、あまり知識がなかったので、直接先生からその事について話を聞く事が出来、非常に興味ありました。先生の講演で、広島の原爆投下が、わたしの問題となりました。先生は、永年の沈黙を破り、貴方の運命を語り、それにより後世に真実のドラマを伝え、決して忘れないように努力されており、感嘆しており、そのような講演を聞くことを喜んでいます。

私には、先生の強い生命力が魅力で、神の恵みを望みます。先生の講演に感謝し、将来の多幸を祈ります。将来とも、194586日の原爆攻撃について、多くの人に語り、説明して下さい。

ヤニネ・シュツエ・ワトロフ

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親愛なる外林教授

先生の広島と長崎の講演を、プロテスタント系ギィムナジュムで興味深く聞きました。私達は (リア ・ヘルバ? ヤニケ ・フロス)は第9学級の学生です。我々には、先生が原爆投下の後に、体験されたことは想像に絶するものですが、講演で先生の体験の印象を感じることが出来ました。

我々には先生の報告は大切のことで、なぜなら 原爆攻撃は記述出来ない恐るべきもので、無実の人々も危害がかかるからです。さらに194586日の出来事が、なにか身じかに感じられ、我々の場所にそのような出来事が起きるかもしれない予感がします。

将来、先生がさらに多くの人々に、原子力反対、原爆反対を訴えることを希望します。我々は、将来、平和の為、原子力反対に努力することを誓います。先生の余生のご幸福をいのります。

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親愛なる外林教授

我々は、リプシュタトのプロテスタントのギムナギュムの三人の学生です。2009624日に、我々の学校の講堂で先生の講演を拝聴しました。我々は今まで広島や長崎での原爆攻撃を詳しく知らなかったので、先生の話に感動しました。

被害者の写真、並びに原爆の正確のデタなどより、非常に我々の身にこたえ、原子力について考慮を考えるようになりました。先生がこのような講演をされる事はよいことと思います。なぜならこのようなことは、過去のものとされてはいけないと思います。

最後にもう一度先生の講演に感謝します。さらに将来、このようなお仕事を、とくに講演会を引き続いてやってください。

サビナ・カスパースキ、 イナ・ヒェフー、 メリサ・ケール

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親愛なる外林教授

私達(シモン・ロリング、サラ・ブルネ、レナ・モリト)は、リプシュタトのプロテスタント系ギムナジュナムの9学級学生で、2009624日の講演を興味深く拝聴しました。

先生が負傷した友人を仮診療所まで連れて行き、別れた事や、別の友人の死体を河の水面上に浮かんで いるのを見つけた事を話され、我々は感動しました。

質問]:そのような恐るべきことをする力が、一体どこから出てくるのですか? そしてそれが先生の将来の生活に、どのように影響しましたか?

我々は、先生が原子爆弾のカタストフを受けた時の年齢と同じですが、先生がしたような、そのような恐るべきことをする事は出来ません。

いろいろの写真を見せて頂き、感動しましたが、特に感動したのは銀行の入り口の人間の影で、人間が蒸発したと言われましたが、想像に絶することです。

我々は。先生が勇気を出して、原爆投下について、我々に語ったことを感嘆し、敬服します。先生からの返事を楽しみにしています。最後に先生の幸福を祈念します。

シモン・ローリング、サラ・ブルネ、レナ・モリト

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オスナブルグより

連絡文

オスナブルグより/2008年11月26日

親愛なる外林様

私は、貴方のオスナブルケでの9月1日の講演会の後で、クラス BFS 1Aの生徒達が書いた書簡集を、貴方に送ろうとしています。私はそのように、生徒達が反応するとは、全く考えていませんでした。それだから私はとても喜んで、貴方に書簡集を送ります。

奥さんによろしく。

ホルガー・シャアハト(政治学教師)

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【感想文】

親愛なる外林 様

広島の原爆投下についての貴方の講演をクラスとして参加し、体験談や映画を見聞し感動しました。 その後我々は授業でも、さらに激しく語り合いました。クラスとして合意したことは、貴方は非常に印象的の人で、われわれの尊敬をうける人です。しかしわれわれの誰も、貴方の若い時代に体験し、耐え抜かねばならなかったことを、誰も実際には体験出来ませんが。

我々は気がついたのですが、貴方の講演は真に迫っていました。我々は感心したのですが、貴方がこのような体験を言葉で、よく表現出来るものだと思いました。この便りの最後に、我々は貴方のご幸運を祈ります。更に、貴方がこの手紙に返信下されば、又は我々の学校を訪問する事が出来れば、嬉しいのですが?!

オスナブルクから、心からの挨拶を送ります。

メラニ・レチンー、キルステン・コイセンバルスキ、ナジネ・フリーゼー

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親愛なる外林様

無事にベルリンに帰られ、オスナブルケが少しでも、気に入れば、われわれは嬉しい事です。200891日大学で開催された貴方の講演は、我々に非常に感銘を与え考えされました。この便りで、我々はクラスの中で、いろいろな意見が出たことを貴方にお報せしたく思います。

我々は貴方の体験に感動しました。さらに勇気を持って、町中を歩き回り、人々に状況が、刻々変化することを語り続けました。我々は貴方を非常に個性をもった人と思います。お母さんの死後、貴方がなされたことを、特に感動しました。誰でも出来るものではありません。それだから貴方は我々のクラスで多くの尊敬を受けられました。

貴方の興味ある、印象的な講演、どうも有り難うございました。貴方にすこし時間が取れ、我々に返事を書いて下されば、とても嬉しい事です。クラス BFS 1aからの親愛なる挨拶を!

イラ・ジュリアン、カトリン、アナーカトリン

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親愛なる外林様

我々は貴方の広島原爆投下の情熱的講演を拝聴しました。この理由から我々は貴方に便りしています。このカタストロフに生き残った時代証人と知り合ったことを自慢に思っています。

全てのものが、わずか数秒の内になくなること、人間が消え去り、その影のみ残ることは、われわれの想像を絶することです。我々の驚きですが、多くの死体を見て、貴方はくじけなかった事です。我々は当時の貴方の年代ですが、全く考えられないことです。

更に貴方のお母さんの死に直面して、くじける事無く、健康を害する事無く、必要な事を感嘆します。更に負傷した友人を、限られた時間といえ、好意的に助けた事を拝聴しました。我々は貴方が生き残った事を喜び、この事柄について話をする勇気を持たれたことを喜んでいます。

貴方の将来に幸福がありますように、将来の健康を祈ります。

ファビアン・ベケ、マルセール・ストルツ、ヒリブ・メマン、
ジャニク・シェファー、セルヴァー・アリク

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親愛なる外林様

我々、クラスBFS 1aの一同は 、貴方の感激的な講演にお礼を言いたく、そしてわれわれの印象を貴方に伝えたく、便りしています。

我々は、次代の後継者として、貴方が体験されたような運命的の衝撃を、その真似事のような事も、誰も出来ません。我々は、貴方の過去の事をとても印象的に話をされ、それは決して普通のことでなく、驚き驚嘆しました。我々それぞれ、貴方の講演の虜になりました。貴方は多くの人間の命が数秒の内にドラマチックに変わってしまうと言われました。又その衝撃の結果は、我々には経験は出来ず、該当の人々が、突然人生の大変換が起こり、いかに狼狽するか、恐るべき事として拝聴するのみです。

貴方がこのような講演をされる事は非常に良い事と思います。何故なら我々だけでなく、人間は過去の出来事を忘れてしまうからです。我々は、このような事は二度と起こらないようにしないといけません。貴方が将来更に多くの人々、特に若い人々と話して下さることを希望します。最後に貴方の将来のご幸福、特にご健康を祈ります。

BFS 1a  ラウスナ、マヤ、ステヤウィ、マリア

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親愛なる外林様

先ず最初に貴方の興味ある講演を心から御礼申します。我々の幾人かは、貴方の講演で初めて恐るべき原爆攻撃を知りました。しかし既に概略そのことを知っていた人々も、新聞の予告で、非常に緊張していました。

総てはビデオにより、貴方の体験や思い出のよりはっきりとした事ですが、いかに残酷で恐るべき事が、貴方や総ての原爆被害者が体験しなければならなかった事を知りました。それでこの問題がお互いの共通の事になったので、その後クラスで引き続いて、このテマで話し合いしました。従って全く異なった立場から質問が出て来ました。以下の引用文で、その様子をご想像下さい。

ヒリプ・ノイマン:圧等的であった。

ミヤ
 ・クリテ:非常に興味があった。彼が生き残り、原爆を絶滅する事に努力しているのは、とても嬉しい。

セルヴァ・アリク:彼が、お母さんの死体をいかに処理し、勇気を持ってその事を我々に語る事が、とても印象的 
 でした。最も激しいのは、石の上の人間の影であった。私は外林を尊敬する。

イラ ・クリテ:外林は敬服に値する人である。 映画を思い出した。

サナタ ・ダウムビア:激しいそして興味のある講演だった。外林は身震いをしていた。

セルヴァアリクのダウムビアへのコメント:私はボスニエで、そのような見たくないものを沢山見ました。
 話題は再び写真の事になり、彼女には、この写真がとても感じたようでした。


マリア・クリテ:外林がベルリンに生活を築いた事が、非常に印象的であった。

リザ・ヘッラ:外林は強い個性をもっており、16歳でそのようなことをやり遂げた! その事について、勇気をだして話した。良い事だ。

ラモナ ・フリドリヒ:私はそのような事が二度と起こらないよう、望みます。

貴方の講演のテマが、いかに我々を引きつけたかを、示すもので、我々のクラスの反応として貴方に送ります。当然の事ですが、別の意見もすこしありました。

我々は貴方の率直さ、勇気を心から感謝します。我々は、貴方が更に多くの若い人々、しかしお年寄りの人々とも話し合い、このテ?マに関心を持たせてくださる事希望します。何故なら、そのようなことでのみ、そのようなカタストロフが二度と起きないように出来るからです。

貴方の将来に幸運がありますように、貴方の講演をもう一度聞かれるように。

プロテスタント社会教育専門学校
マサタ・ダウミツ、カタリナ・ズスチフ、ララ・ココザ、サスキア・ヅリシア

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親愛なる外林様

先ず最初に、大学図書館での貴方の興味深い感動的な講演に感謝します。我々の先生が、講義の代わりに、図書館である講演会に行こうと提案され、我々はすこし疑問でした。貴方の事を報道している新聞の切り抜きが、クラスの教室に掲示してありました。我々はその記事を読む事により、我々の疑問は無くなりました。総ての学生は非常に興味を持ち、原爆攻撃について個人情報を集め始めだしました。

講演を聴いた我々にとって、貴方の講演は非常に肯定的でした。我々は集めた情報と貴方の講演の事実を比較しました。我々は驚いたのですが、貴方が自己の経験をいかに上手に話し、我々に広島原爆攻撃を間近にかんじさせたか。

数日後、クラスでもう一度広島原爆について話し合いしました。学生達のコメントを、貴方に喜んで紹介します。

セルヴァ・アリク:彼の母の死後、彼がやった事、更にそのことを話す勇気に感動した。強烈なのは石の上の影であった。私は外林を尊敬する。

ロモナ ・フリドリヒ:外林は当時、私の現在の年齢であった。若し私の両親が休暇に出かけると、私はすでに危機に陥る。そのようなことが二度と起こらないように。

ロモナ・ドムビア:講演は強烈で、興味があった。DVDは講演をわかりやすく解説した。

マヤ ・クリテ:非常に興味があった。我々はかって学校で、いかに原子爆弾を製造するか習った事がある。 講演中鳥肌がたった。外林がベルリンに生活の拠点を築いたことに感動した。

最後に将来の幸運を祈ります。

プロテスタント専門学校のBFS 1aのクラスより、

リザ・ヘラー、サラー・コルハサ、リザ・ソンマーカンプ、ミア・オーバジク

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<感想文への返事>
2010年4月19日


ベルリンより/外林秀人

 親愛なる女子学生、男子学生の皆様へ

 感想文どうも有り難う。200910月、11月は広島に帰っていましたので、201023日に感想文を受け取りました。私の講演をよく理解してくれ、非常に嬉しく思っています。いろいろの質問があり、次のように選択し、返答することにしました。

(質問 1

 核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の展示に、黒い、油性の雨粒が広島で降ったとありましたが、体験しましたか?

【返答】

 それは、“黒い雨”です。広島の原子爆弾爆発後に、黒い、べとべとした、油性の雨が降りました。この降水はウラン核分裂から出来た放射性物質からなっており、放射性の水が、 被害者の皮膚や衣服に付着しました。更に悪い事に、人々は身の回りにある放射能で汚染を全く知らず、それに何も対策していませんでした。しかし、降った地域は全広島でなく、局所的で私は幸いに遭遇しませんでした。

(質問 2)

 先生は、河に浮かんでいる友人の死体を見つけ引き上げたと、恐るべきことをされ感動しましたが、そのような力はどこから出てくるのですか?

【返答】

 私は本来“血”に弱い人間で、血を見るとおびえます。しかし緊急事態に遭遇すると、私は全く別の人間になりました。私は負傷し、出血している友人を助け、河に浮かんでいる友人の死体を見つけました。死体の崇拝、苦しんでいる人間を助ける事、私の両親から、仏教から学びました。

(質問 3)

 先生は、なぜ永い間、体験談を話さなかったのですか?

【返答】

 生存している原爆被害者は、異常な状態に現在もあり、日本には“被爆者”と言った特別の名称があります。放射線を受けた人々は、初期の頃は科学知識の不足より、症状が伝染するといわれました。現在でも、科学的に言って、放射能が人間にどのように作用し、何年後に、又は次の世代に症状が出てくるのか、誰も言えないという理由で疎外されているのです。

 “被爆者”は一般的に公衆から逃げ、広島について喋らない傾向にあります。私も日本の家族を保護するために、60年間沈黙して来ました。しかし世界中に多くのマイナスの発展があり、非常に心配しています。多くの年寄りの被爆者は死亡し、体験談を話す義務が、私にあるような気になっています。そこで2007111日に初めて体験談を話し、その後ドイツ、スイス、オランダと、“広島と長崎の追悼”を続けています。

21世紀の初めでも、未だ新規の“被爆者”の申請が続いており、自分の被爆体験を公開する勇気を持って来ました。

最後に・・・

 核兵器は、人間が今までに開発した、使用した兵器のうちで最悪のものである。

 我々は原爆の結末を忘れてはいけない、忘れると繰り返されるから。

 原子爆弾の無い世界を!

以下・制作中

外林秀人<ドイツからの便り/ベルリン通信>より

ベルリン通信のページへ⇒


制作・編集・発信
「ドイツの原子力物語」
出版委員会
外林秀人・外山茂樹・宇田川嘉久